すると大平は
「彼らは苦労していない。派閥運営の苦労など 一つとしてしていないじゃないか」
「その通りですよ。派閥運営の苦労をして陰徳を積んでいるあなたでさえ行き詰まることがある。彼らが行き詰まることは目に見えている。問題は彼らではない。あなたなのだ。あなたが深いところで変わればよい。大平さん、あなたに必要なのは深さだ。彼らよりも より深いものがあればよい」
このとき大平が口をはさんで突然
「いつ大蔵大臣をやめればよいか」
といった。〈そうか、この質問を大平はしたかったのか〉私はやっと判った。この問いは大平の心の中に長い間ひっかかっていたものらしい。みそぎ論を述べて以来のことだろう。だがこの時、この質問を受けた私は 何か “よそごと” のように思って聞いていた。ひどく重大なことなのに、私はこれを重く受けとることなく 響きに応ずるように即座に答えた。
「ロッキード究明がヤマを越し、真相究明に差し支えないな、と思ったら、その時やめればよい。あなたがやめることで政局に大きな変化が起き、真相究明を邪魔されたと世間がいわなくなった時が、やめるときだ」

大平は
「なるほどそうか」
といい
「おれはあることをしなければならぬ。派閥を解消して政策集団にしなければならぬ。このことを考えておかないと……。大平の影響力はそれでも残ると思うか」
と うなるようにいった。私はこれを聞き
「やめた後それをやればいい。いや並行してやってもいい」
といい、続けて
「あなたは田中角栄と会うといっていたが会った時、田中の政界引退を進言したらどうか」
私が記憶を呼び起こすようにいうと
「田中に会うのはやめにした。これから電話する」
といって別室に出ていった。暫くして帰ってくると
「田中という奴は面白い奴だ。『おれも少し元気が出てきた』といっている。『このヤマは7月下旬だろう』といっていた」
「あれも児玉や小佐野の線からではなく、丸紅や全日空の線から来られて困っているのじゃないか」
大平は私にいった。
大平はこの日、宏池会で「サンファンに行く前に田中に会いたいが」とそれとなく私に話しかけた。私は「会っても結構だ。だが田中を助けたいのならなるべく遠くにいた方がよい。近くにいては何をいっても世間はあなたの言葉を信用しないだろう」と述べたが、大平はこれを受けてくれたのだった。

「政治は生かすという働きだ。あなたは田中角栄を救えるただ一人の人かもしれない。いろいろな人は田中を殺すために田中引退を叫ぶ。が大平は田中を生かすために引退をいうのだ。同じ言葉でも内容はまるっきり違う。思いが違えば働きもおのずから違ってくるはずだ」
「あなたはもう田中角栄を頼ってはいないでしょう」
私がこう問うと、大平は
「そうだ、おれはもう田中を頼りにしていない。田中は伊東正義や服部安司の反田中感情を極度に嫌っている。おれは一度も田中派のことについて文句をいったことがない。いくら田中が悪口をいっても伊東も服部もおれの可愛い子分だ。ここらが田中の限界だと思う」
といった。私は
「長い間あなたが田中角栄を消化し、脱皮してくれることを願っていた。今あなたの話を聞いて本当に嬉しいと思う。あなたはさらに前進してほしい」
といった。私の言葉は次から次へあふれ出て止まらない。
「大平さん、あなたは田中角栄より荒事に対する才能がないことを心配していた。田中にはとても勝てぬ、と思っていたはずだ。ある意味で田中は超能力者だ。だがこの超能力者にも限界がある。

そうでなければ、雑誌の一片の企画原稿で内閣が潰れるなどということがどうして起こるのだろうか。
田中と比べたら全く非力な三木がもうそろそろ田中と同じぐらいの間、政権担当を続けている。これは歴史が三木を使っているからだ。
あなたもこのように空っぽになって神様に使われればいい。能力だとか力だとかは全くなくても構わない。むしろそんな物は無い方がいいだろう。それだけ神の働きはあなたを通して出てくるからだ。
私はあなたにヘドロの中に座りこめ、といった。あなたが本当にこのヘドロの中に座り込めば大平は一輪の花に変わるだろう。
あなたは黒潮の流れは止められない、と大阪講演で述べた。この黒潮はあなたと別個にあるのではない。あなたを通してこの黒潮が出てくるのだ。
大平を通じて天地の働きが出てくればいいではないか。春から夏になるのを止めることはできない。あなたは世界を夏にする力と一緒に歩けばいい」
大平は黙って聞いていた。だんだん目が輝いてきた。心は安らぎ、思いにある方向性がついてきた感じだ。私の言葉が大平の心の中に入って行くのがよく判った。大平は見違えるように生き生きとしてきた。

「サンファンでは世界の政治家が集まる。どういう考えの男がいるかを見てくる。スターリンや毛沢東、周恩来のような男はいないよ。彼らに比べたら大抵の政治家は事務官ぐらいのものだ。出発に当たって心の友と話したかった」
大平は私の手をとって握手を求め
「よくきてくれた」
といった。大平は明日サンファンに出発するのだ。夜10時からの記者会見の時間が迫り、各社の記者たちが続々と応接間に集まってきた。私たちは三時間、ただ二人だけで話し合ったことになる。
私は大平と別れて玄関で靴をはこうとしていたら
「伊藤さん」
と大平が大きな声をあげて私を呼び
「お孫さんたちにやってくれ」
と到来ものの果物籠をお手伝いさんに持たせて私に渡した。大平の精一杯の感謝を私は感じて自動車に乗った。
すれ違いに森田秘書官がけげんそうな顔で私のそばを走るように通り抜けて家の中へ入っていった。

この夏はひどく暑かった。7月7日の新聞は「最高検首脳が最終段階の態度を協議した」と報じた。
私は友人の記者たちからの話で 布施、高橋ら最高検首脳は米側資料やコーチャン証言で自信をもったらしいことを知った。

全日空を調査したことは僥倖で ここから尻が割れ、捜査の手は丸紅にのび、大久保や伊藤が口を割ったことから一切が判明したのだ。
三木首相も稲葉法相も全貌を知っている。近々目標の政府高官に逮捕の手がのびてゆくことを私は予感していた。
こういった目で三木内閣を見ていると、はっきりした変化を感じ始める。それは椎名に驚かない三木の出現であり、汚職追及におののく党内の心理状態であった。三木首相は当初、椎名副総裁の一言一句に敏感に反応していた。ところがこの椎名が現在、反三木運動をしていることを十分承知の上で、三木は何ら反応を示さないのだ。それどころではない。何かしら使命感を感じて微動だにせず、ある一点を凝視して仁王立ちになった観がある。
「橋本登美三郎、佐藤孝行、小佐野賢治らの逮捕は必至だ」という噂が党内をかけめぐっていた。
「7月20日頃までに黒白はきまり 起訴か不起訴がきまる。だが灰色は残る。おそらく田中角栄は灰色として残るだろう」という観測であった。
逮捕者が出た時の世論の反応が重要であった。三木は日増しに英雄になりつつあった。私はＹ項パージ時代の吉田ワンマンの強さを三木に感じ始めていた。

なるほど権力は恐怖から生まれるものだ。毛沢東はこれを「革命は銃口から生まれる」といったではないか。
私はロッキード追及の的が絞られてゆくにつれて党内の「どうしようもないモヤモヤから何かが起きる、それは三木包囲網ではないか」と思っていた。「そのためにも大福の提携は必要だし、椎名の三木おろしには大平は加担すべきではない」と信じていた。
7月22日、毎日の斎藤記者から重要な情報を受けた。
「コーチャン証言に中曽根幹事長の名前が出てくる。宏池会からも佐々木秀世の名が出てくる。逮捕の可能性もある」
というのだ。
この頃から党内の緊張はいよいよ強くなっていった。何が飛び出すのか判らないのだ。事態の赴く所がどこかを知っているのは三木と稲葉の二人しかいないように見えた。
24日、朝刊各紙に「最高検が嘱託尋問に対する免責をきめた」とあったので、私は「米側の調査が日本側に渡されるための条件(コーチャン、クラッターに対する責任の免除)がきまったな」と思った。
27日朝、何の前ぶれもなく田中角栄は逮捕された。この報道は電光のように政界を震撼させた。
政局はこの日から終点の定まらぬ激動へと進んでいった。

昭和51年7月26日夜、首相公邸の三木武夫首相に
ー明朝、前首相田中角栄逮捕。
それを通報する一本の電話があった。稲葉修法相からのものである。稲葉は選挙区の村上市にいて、そこから電話で知らせてきたのだ。
「たった今、検事総長から電話で連絡を受けました。検察庁はいよいよ明朝、踏み込みます」
ロッキード事件で高官が逮捕されるという意味であった。
踏み込むーといういい方はいかにも大時代的であり、警察用語的であり過ぎた。そういう言葉をこういう際、法務大臣の立場にある人間がこともなげに口にするところに、稲葉という人間の飄逸さが見られた。とはいえ、そんな調子がしばしば国会答弁の中に現れるので、一部からは不謹慎という謗りを受けることにもなっていた。
三木はつとめて冷静さを保ちながら稲葉に尋ねた。
「いったい誰が……逮捕されるのかね」
「角さん……です」
三木は受話器を耳にあてたまま、しばらく言葉が出なかった。そして無言のまま電話を切った。
ーやはり来るべきものが来た、ということか。
ロッキード事件が発火したのは2月5日であった。

米上院多国籍企業小委員会でロッキード社のコーチャン副会長が
「金は政府高官に支払うため、丸紅の伊藤宏専務に渡されました」
と証言したのがその発端であった。
これを追うようにフランスの小さな新聞が、ロッキード社資料に基づく情報と称して
「この事件に関係している政府高官は、岸信介と田中角栄である」
と報じた。これがマスコミに田中の名前が登場した最初のものであった。
その新聞をパリの日本大使館が入手して本省に送ってきた。その翻訳が三木の手元にも届けられた。それ以来、三木は田中の後ろ側に、ある種の疑念の翳りを感じないわけにはいかなくなった。
事件の炎が燃え盛るにつれて、三木は自民党の危機をひしひしと感じた。記者会見や国会答弁の場で三木は
「ロッキード事件を自分の手によって徹底的に解明する」
「再びこのような不祥事を発生させないよう、自民党の改革、近代化をなしとげる」
という答弁を繰り返し続けた。
衆院では予算委でロッキード事件の証人喚問が行われた。国民はそれを放映したテレビの前に釘づけにされた。
野党はロッキード事件究明以外にはほとんど審議を拒否し、そのため51年度予算の成立は大幅に遅れることになった。

三木内閣は会期を延長し、予算案は成立させたものの、赤字国債を発行するための財政特例法案は、衆院を通過しながら参院では継続審議ということで 成立せずに終わった。
この間、検察の捜査も進んで、丸紅関係では檜山広前会長、大久保利春、伊藤宏両前専務。全日空では若狭得治社長、渡辺尚次副社長、沢雄次専務、藤原亨一取締役、青木久頼経理部長、植木忠夫営業本部長などが逮捕され、いずれも起訴された。ロッキード社の影の顧問で、政財界のフィクサーと伝えられた児玉誉士夫の秘書 太刀川恒夫が逮捕され、児玉自身も病床にあるままに捜査を受け、共に起訴された。それでもまだ、それは政治家にまでは及ぶことなく、ほぼ六か月間が経過した。
ー政界では何人が逮捕されるのか？
ー逮捕されるのは誰か？
という疑惑の濁流が政界内に重苦しく渦巻き続けてきた。
それにしても第一弾の逮捕者が、総理大臣という最高の位にあった田中角栄になろうとは、三木も予測しないところであった。

翌7月27日午前6時半、逮捕令状を目白の自邸で東京地検の松田検事から示された時、田中角栄は無言のままうなずいて、着替えのため奥に入った。