事件はいよいよ政界に飛び火したことになる。
16日、私は本人の肚を叩こうと思って大蔵省に大平を訪ねた。
「田中との関係は大丈夫だ。金は全部 幹事長のところから来ている。だから届け出済みだ。やましいところはない」
大平はこういい切った。政治資金規正法上の手続きは踏んであるということだ。大平はさらに
「三木総理が中橋国税庁長官を直接よびつけた。中橋は事前におれのところへ来たので『おれのことは遠慮せず徹底的にやれ』といっておいた」
と姿勢の正しさを強調した。
このとき大平は椎名が三木を総裁に裁定したことにつき「『大平は中共から金を貰っている。だから総裁の指名から外した』と椎名が田中角栄に話した、という。これを田中がもち出したので、おれは『外務大臣が外国から金など貰ったら外交など出来るものではない』と田中に述べたことがある。毎日新聞も記者を動員しておれを洗ったが 何もないことが最近判った」
と私に語った。椎名裁定について意外な事実を大平の口から聞いて 私はびっくりしたが、さらに押して「今どういう感想か」と聞いてみた。大平は
「なんともない。世の中がどうして張り切るのか おれには判らん」

「いや、私が聞きたいのは あなたの心の中にビクつくものが出てくるか、それとも躍動するものがわいてくるかどうか、ということだ。天地は人間を通してしか働きを現せないものだと思うのだが」
「その通りだ」
と大平はいった。私はそこで
「大平には荒事はできない。あれは政治評論家だという批判が田中の口から聞こえてくる。友情と政治は別ものだと区別しなければならぬ時があるものだ。今からこのことを考えておいてほしい」
私はこう大平に念を押した。大平は黙して語らなかった。
翌日、私は東大の政治学教授 京極純一と歴史家の萩原延寿の二人と会う機会があった。
私は二人の前で
「大平は総理の器ではないかもしれない。だが私には池田の残した願いがある。今年一杯が正念場だ。政治は一番大切なところへ来たと思う。私は大福の提携を考えている。智恵を貸して頂きたい」
と思いを打ち明けた。
十年ほど前、池田内閣が終わったあと三人でＮＨＫのテレビに出たことがある。京極は田中内閣の出現する前「田中が総理になれば大平の目はなくなる」と予言したことがあった。私はこのとき以来、京極教授の実践的な見解を高く評価していたのだ。

京極は
「大平と田中は盟友だし、小佐野と田中は刎頸の友だ。ロッキードをたぐれば米国はニクソン、日本では田中角栄にゆきつく。このことははっきりしなければならぬ」
と核心を衝いた一言を吐いた。京極は私と別れた後
「あの人は命をかけたな」
と萩原に語ったという。私はそれほど死を意識はしなかったが、何かが私を心の底から揺さぶっていたことは確かだった。京極と萩原は友人として私に力を貸してくれるように思えた。
2月18日、宏池会で鈴木と斎藤の二人に会うと「どう思うか」と早速寄ってきた。私は二人の前で次のように断言した。
「いずれ田中角栄の名が出てくるだろう。自民党は解散・総選挙などとても出来る状態ではなくなった。田中派60名、大平派40名、合わせて衆院100名、参院を加えれば130から140名となる。田中はこの大角連合で三木政権を自由にするはずだった。11月には三木を倒し、後の政局を田中復権のスケジュールに乗せる田中角栄の構想はここで狂ってしまった」
鈴木は
「党内関係をよくみた上で大平が決心しなければならぬ」
といった。鈴木の構想も明らかに根底から揺らぎはじめていたはずだ。

ロッキード疑惑は海の向こうの米国上院外交委員会から始まった。それだけにわれわれにとってはまさに寝耳に水の驚きで「一切は霧の中だ」といってよかった。誰がどこでどうしたのかさっぱり判らないのだ。一番の問題は政府高官の名前が誰であるかだった。
アメリカ側は判っているのだろうが果たして公表するかどうか。洩れることはあっても公表はしないだろう。2月23日、衆参両院は米政府、上院に全資料を日本側に提供するよう決議を行い、24日、三木総理も米大統領にそのための協力を要請し、親書にして送った。

時がたつうちに「田中角栄があやしい」という噂が流れ、三木内閣の総辞職がささやかれ始めた。日本の新聞も黙ってはいない。福田太郎とかシグ・片山など あやしげな名前が新聞を賑わせ始める。一番危険なのはこういった正規の情報ではない。各派の策士によるオフレコ会見だ。これをアングラ放送という。2月の初旬、早くも大平が爼上に載せられたが、今は別人が標的となり、攻める方と守る方とが地下放送で激しい宣伝合戦を展開していた。これらは全部クチコミである。

2月19日、大平に会うと、私を待ちかねたように
「福田の下部と福田とでは違うじゃないか。園田直はアングラ放送で色々なことをいっている」
といい
「君は一日に一回はおれに会いに来い」
といった。やっぱり大平は不安だったのだ。
疑惑は色々の人の口を通して増幅することはあっても収斂はしない。何かがこれを整理しなければ、この霧の中の状態は容易に晴れないだろう。この状態を収拾する過程は 同時に新しい権力を生む過程になりそうであった。
われわれはこの道を否応なく進み始めた。
2月24日、私は福田副総理の考えを質したいと思って福田派事務所を訪ねることにした。事務所は赤坂のプリンスホテルにある。私は福田に会って、大平は〈中共から金など貰っていない〉ことを話した。福田は
「大平君はシロだ。この点でわれわれは上も下も統一してシロとして行動している。粛党運動はまだ早い。もう少し様子を見る」
といった。私が今後の対応策を質すと
「自民党は分裂か統一かの岐路にある。収拾策は三つある。一つは解散、一つは総辞職、もう一つは頬かぶりだ。頬かぶりはこの前の金脈で使ったから今度は使えない。解散もできないだろう」

「大平君とは坊秀男君を通じて突っ込んだ話をしている。小山長規も来ている。君は大平君とおれとの潤滑油になって動いてくれ」
といった。私は翌日、大蔵省で大平と会い 福田との話を述べると
「おれがシロであることなど福田に頼む必要はない。そんなことはするな」
と珍しく怒り出した。私は別に福田に頼んだつもりはないのだがと思ったが、早々に引き上げた。
翌2月26日、私は “田中に近い筋” と会ってその動静を聞き、田中の身辺がただならぬことを知った。
「今の田中に政局を判断する余裕などない。政府高官の名前が出たら、直ちに田中角栄が自ら記者会見に応じてこれを否定することになっている。田中の周辺は汚職に関するニュースに全神経を集中してビリビリしている」
「椎名暫定構想は詰めが甘かったと反省しているようだ。そもそもこの構想は死者に鎧を着せて走らす武田忍法だったらしい」
などのことが判った。
〈田中は必死で火の粉を振り払おうとしているな〉ということが判った。「やっぱりそうか」の思いだ。田中側に思い当たることがなければ 大平のように平然としているはずではないか。

これは福田派のアングラ放送が対象を田中角栄の一点に集中していることを示すものであったかもしれない。
政治家たちは表向き何もないような顔をしてテーブルにつき 笑いながら話しているが、その下では激しく政敵の向こうずねを蹴とばしているのだ。「今度こそお前の息の根を止めるぞ」という脅威を田中はひしひしと感じていたに違いない。だから今の田中に政局を判断する余裕などないのだ。
「解散などとても出来はしないな。今秋は議員の任期満了による総選挙になるだろう」と私は思った。政局の底流には何かがある。これが三木内閣の帰趨に関わることも判るのだが、どのように関わるかがさっぱり判らなかった。

政変には四つの原因がある。
第一の原因は総理総裁が死亡することだ。この時は即座に政変となる。死亡の原因が事故であろうと病気であろうと、その理由を問わない。
第二の原因は汚職だ。閣内に汚職者が出れば この内閣は総辞職せざるを得ない。日本はもちろん、おそらく外国でもこのことは妥当するだろう。
以上、二つの原因を病気に例えれば、脳溢血か心筋梗塞、蜘蛛膜下出血に類するもので 一瞬のうちに政局の転換を引き起こす。待ったがない。

第三の原因は政策の行き詰まりであり、第四の原因は派閥抗争の激化である。以上二つの原因は大抵一緒になって現れる。政策が行き詰まると派閥の抗争は激しくなり、抗争が激化すると政策の矛盾が拡大する。この状態が長期化すると汚職が内部的に告発されたり、テロも現れるようになる。結局、以上四つの原因は一つだけではなく、複数の原因が同時に多発して一挙に成立する、という形をとることが多い。
「派閥の抗争」や「政策の行き詰まり」だけでは内閣は直ちに倒れない。もう一つ「財政の逼迫」が加わると、その状態は糖尿病や老衰の如く体力をジワジワ弱め、何か他の外圧を受けると直ちに余病を併発し、一挙に体制そのものをひっくり返す。
三木内閣にとってロッキード事件は まさに汚職に関わる死因が現れたことであった。もしここで指摘された政府高官が現閣僚の中にいたとしたら、一歩ゆずって党三役の中に存在していたとしたら、おそらく内閣は一挙に潰れていただろう。三木首相や井出官房長官はこのことを極度に心配していたはずだ。
だから三木首相は大平蔵相の実態を 中橋国税庁長官を通じて聞き質したのであろう。

これ以外に誰がいるか。中曽根幹事長はどうか、心配だ。三木首相はおそらく誰かに命じた究明の結果を息をひそめて待っていたはずである。
党内各派も同じように息詰まる思いで事態を見守っていた。福田が私に「粛党運動は早い。もう少し様子を見よう」といったのは、まだ「標的が視界に入ってこない」ということであった。標的が判ったとしても、これが三木内閣の責任に転嫁できるだろうか。転嫁させたとして 誰を三木の代わりにしたらいいのか。こういったことは一切 判っていなかった。こういう状態はまだまだ政局が熟していない時である。学者グループの一人は私に「入りと出は判る。が途中経過は判らない。伊藤さん、祈念して下さい」といったが、これは当時の政情を正確に表現したものであった。

3月13日、私が会社へ出ると、大平から電話があったと家内から伝言があった。さっそく瀬田に電話すると「いま別の電話で話している」という。暫くしてかけなおすと大平が出た。
「田中と電話をしていたところだ。政界を引退せよと勧めたが、なかなか言うことをきかない。田中の引退は容易ではない」
という。

「これからの調査で児玉とおれとの間に金が流れていないことが判るだろう。そういって田中は強気だ」
大平は 田中に引退を勧めることを私に相談したかったらしい。私は〈おれも政治家をやめるから、君もやめて引退せよ〉と大平はいったのではないかな、と思った。また〈児玉が田中に金など渡すだろうか。児玉の立場は政治家に金を渡すことを考えるほど弱いものじゃない。田中もそのことは百も承知のはずだ〉と内心思った。しかしこのことは大平には何もいわなかった。

米側からのロッキード資料は3月末、早くもその一部が三木首相の手元に届いたようだ。予算案とロッキードが当時の政治日程の最大課題であった。変化は検察側から起きるはずだと思っていたが何もなく、却って田中の方から動きが出てきた。
4月2日、田中は記者会見して「自分は潔白だ」と一方的に宣言した。この記者会見のことは田中から事前に連絡があったらしく、大平は午前中からひどく気にしていた。
翌日、大平から電話で「田中発言をどう思うか」と問いあわせてきた。私は「田中派内の動揺を押さえるためのものだろう。だがこの記者会見だけで事態が収まるとは思えない」と述べた。