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うちの猫がいちばんかわいい-5
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猫の親バカスレ
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趣味も多彩だった。短歌に尺八、琴。若い頃はバイオリンを習いたがった。空手の流派である躰道(たいどう)は自衛隊に勤めた関係で始めたようで、豊にも小学2年のころから教えた。「文武両道」がモットーだったが、「育児にかんしてはむしろ放任主義だった」と日記で振り返っている。
信仰心の篤い仏教徒でもあった。豊が1歳の時に妻絹江が髄膜炎で生死をさまよい、妻の信仰する宗教に帰依した。以来、尾崎家の朝は題目のお勤めで始まり、豊も唱題して育った。
後年、コンサートステージに上がる前、豊は数珠を握りしめて心落ち着かせたという。
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「氷の世界」「無縁坂」をつま弾いた小学生時代
こうした父をもつ豊が音楽に目覚めたのは1976(昭和51)年、小学5年の時。東京・練馬から埼玉県朝霞市に引っ越した。転校先でいじめられ、不登校の時期もあった豊に、女性担任がギターを弾いてくれた。学校を休んだとき、両親が共働きのため誰もいない自宅で、兄のギターを押し入れから引っ張り出し、井上陽水の「氷の世界」や、さだまさしの「無縁坂」などをつま弾いた。
その後、中学では転校前の練馬に越境通学し、かつての悪友たちと行動を共にした。中2の秋、友達が教師に叱られ、坊主頭にされて家出したのを深夜までつきあった。この事件がデビューアルバム「十七歳の地図」に収められた「15の夜」の歌詞につながっていく。
ここで豊の兄、康のことにも言及しておきたい。康と私には、あるつながりがあった。
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「俺と同級生じゃねえか!」
1960(昭和35)年、尾崎家の長男として康は東京で生まれた。
父健一によると、一発型の豊と違い、コツコツ型の康は「毎日ハチマキをして夜中の二時まで(勉強を)やったので、中学では一番」だった。それが高校では「素行が悪く、あまり家に帰らなくなり、職員会議が7回も開かれ」たようだ。(見崎鉄『盗んだバイクと壊れたガラス 尾崎豊の歌詞論』)。
1年浪人した康は早稲田大学法学部に入学。裁判所書記官を勤めた後、学習塾講師となり、現在は弁護士として活躍している。
本稿を書くにあたり、私は尾崎豊関連書物を50冊ほど買い込み、「Rock’n Roll」と落書きされ黒光りする机の写真を載せた『尾崎豊 永遠の愛と孤独』などを読み込んだ。
そのなかの一冊、康の『弟尾崎豊の愛と死と』を読んで、慄然とした。
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兄の視線から描いた、覚醒剤中毒にあえぐ弟の姿におののいたからだけではない。奥付の著者経歴欄に1984年早大法卒とあったからだ。──俺と同級生じゃねえか!
当時の法学部はひと学年に千人以上いた。語学のクラス分けで別々になると、サークルやゼミで一緒にならない限り、同級とは分からない。しかも豊が新宿「ルイード」でデビューするのは、われわれが大学を卒業したまさにその月だった。
縁という御大層なものとはかけ離れてはいるものの、40年前早稲田キャンパス8号館の講義室で、尾崎豊の兄と同じ憲法や刑法の講義を聴いていたかもしれぬと思うと、フォークロックと呼ばれた尾崎の音楽の調べが、より耳のそばで聴こえる気がする。
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現役高校生アーティストとしてデビュー
縁といえば、私の末弟は尾崎豊のデビュー当時からのファンだった。
尾崎家の兄弟の年齢差(5年)が小出家のそれと同じなのは偶然だが、1967年早生まれのうちの弟は、いわゆる校内暴力全盛期に中学時代を過ごした。
TBSテレビドラマ「3年B組金八先生」で荒れる学校がテーマとなったのがこのころ。管理教育からこぼれる生徒を表した「腐ったみかん」はその後、四流大学でうずくまる学生たちを描いた「ふぞろいの林檎(りんご)たち」に引き継がれていく。
私の弟は実家で父親との確執に飽いていた。
「つべこべ言わずに、親の言うことを聞けという態度が透けて見えた。大人はどうして間違いを認めないんだと、あのころは心底おもった」
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進学校とは言えぬ地元の高校に入った弟は万引きやタバコ、バイク運転を見つかり、繰り返し停学を食らった。1学年上の尾崎豊も似たような理由で青山学院高等部を停学になった。この1983(昭和58)年の流行語が非行少女の家庭崩壊を描いた「積木くずし」だった。
豊の母親は、積木くずしに関わったカウンセラーに直接、相談をしている。だが、私の弟の場合と同じく、教科書的な上から目線の助言が功を奏することはなかった。豊は停学期間に書き溜めた歌を引っ提げて、現役高校生アーティストとしてその年の暮れにデビューした。
コロナ禍になるずいぶん前のこと。カラオケで弟の歌ったのがサードアルバム「壊れた扉から」収録の「Forget-me-not」。尾崎が20歳になる前日ぎりぎりに作った名曲だ。
♪君がおしえてくれた 花の名前は 街にうもれそうな 小さなわすれな草♪
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野音ライブ、「飛び降り、骨折しつつ」叫び歌った……
尾崎豊の名を一躍とどろかせたのが、1984(昭和59)年8月の日比谷野外音楽堂でのライブだ。「アトミック・カフェ」の名で反核がテーマの音楽フェスティバル。半年前に出したファーストアルバムが二千枚程度だったので、まだ無名に近かった尾崎は演奏の途中、高さ7メートルの足場から飛び降り、足を骨折する。それでも、メンバーの肩車に乗って、♪自由って いったい なんだい♪と叫んだ。
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当時、私は新聞社に入ったばかりで、東京社会部での研修中だった。尾崎のこの事件は全く記憶にない。その後下町の警察担当となり、記者クラブで他の新聞、テレビ、通信社の先輩記者にもまれて取材力を磨いた。そこで一緒だったのが共同通信の西山明だった。
普段は記者クラブの畳に寝転がっていた西山は、福島原発を早くから取材し、一冊の本にまとめていた(『原発症候群』批評社)。その西山が、「10代の教祖」として社会現象化している尾崎豊を取材しているという話を、別の先輩記者から聞いた。
残念ながらその経緯を本人から聴き出す前に、西山は病気で帰らぬ人となった。
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沢木耕太郎との「歴史的対談」
尾崎をめぐる人のつながりは、思わぬところで見つかる。
西山と同じ大学で同期だったというノンフィクションライター沢木耕太郎が、尾崎豊と対談している(「月刊カドカワ」1991年第2号)。
1989(平成元)年、尾崎に長男裕哉(ひろや)が生まれた。翌年に5枚目アルバム「誕生」がリリースされ、対談は行われた。
沢木は、7歳の娘がアルバムの一曲「COOKIE」の一節♪おいらのためにクッキーを焼いてくれ♪を一回聴いただけで覚えて歌ったエピソードを紹介し、「言葉が溢(あふ)れてるけれども、言葉がしっかり伝わるよね。娘が歌詞を間違えないで歌えたのもそのせい」と称賛した。
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一方で、対談4年前のニューヨークへの渡米後、所属音楽事務所の移転問題でごたごたし、覚醒剤取締法違反で逮捕後に出た4枚目アルバム「街路樹」については、「作るのが厳しかったんじゃないかな」とストレートにぶつけた。
これに対し尾崎が「NYにある退廃的なもの──ドラッグにしてもそうだし、犯罪にしてもそうだけど──そういうものに対応していく自分を歌いたかった」「あの時点で僕は何かにつまずいているんですよ。それに気づきながら歌っていることに意味がある」と答えたのが印象に残る。
対談の後半で、話題は歌い手と聴衆の関係に及んだ。尾崎はこういった。
「僕が幸せになるには他人も幸せでなくてはならない」
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