大平は第一回選でともかくも101票という三ケタの票をとり前尾のときの96票を上回った。これで大平宏池会会長は面目を維持し、会の団結は固まった。
公選の終わった日の夕方7時、私はヒルトンホテルの一室で大平と話していた。ＮＨＫの記者が一緒にいたので思うことがいえない。そこへ田中新総裁から電話があり赤坂の料亭へ来てくれという。「いよいよ三役と組閣だな」と思ったので
「幹事長になれ、三木は副総裁に推せ」
と肩ごしに告げて大平を送り出した。

翌6日、宏池会の事務所から「青山のマンションに来てほしい」という連絡を受けたので出かけてみると若手代議士が全員集まっていた。ＮＨＫの島記者も来ていた。
大平は午前中、瀬田の自邸に鈴木善幸を招き 前夜の田中との会談の内容を話しているらしく なかなか姿を見せない。島記者が瀬田に電話すると大平夫人が出て「しばらく前に家を出た。外相を受けたそうだ」と述べたという。
「大平外相、橋本幹事長」は今朝の朝刊各紙が伝えている人事だ。若手はいっせいに不満を述べた。「なぜ幹事長にならぬか」というのだ。やがて大平がやってきて昨夜行われた大平・田中会談の内容を話しはじめた。

「田中は総選挙に一切をかける、ここで福田派を締めあげるつもりだ。そのためには田中が自分で幹事長を兼任するといってきかない」
「おれたちのムラ(宏池会)では大平が幹事長になれという声が強いのだが」
「宏池会の同志がそういうのは 君が次期総裁になるためのものではないか。おれはいつまでも総理総裁をやっているつもりはない。そのときは君に全財産を投入して政権を渡す。田中はそういった」
と大平は全員に話した。
「こんな言葉を信じるようでは大平は甘い。この手でいつも田中に手玉にとられている」全員がこの人事に反対だった。若手の意向が判ったのか 大平は
「それじゃもう一度やってみよう」
といって田中総理のいる官邸に出かけていった。
佐々木義武はこれを見送ったあと
「大平には幹事長になろうという意欲がない」
と嘆く。この言葉が私にはとても印象的だった。

田中内閣はこうして発足した。もちろん大平派の若手の意向などは通るはずもない。党執行部の構成は田中にとって完璧だった。
内閣はどうか。官房長官には腹心の二階堂を起用し、植木蔵相、木村建設相など これから行う列島改造計画推進の急所はすべて田中派で押さえた。

三木は副総理含みの無任所相、大平は外相、中曽根は通産相に配置して「連携三派」をつなぎとめた。ただ発足当初の顔ぶれには福田派が一人も名を連ねず 田中首相が経企と郵政を兼任している。これは福田との話し合いが不調で組閣に当たり田中が見切り発車したことを示すものだ。しかし五日後に福田派からも入閣し対福田関係は一応修復した。
この人的配置を見れば 少し人脈的な知識のある者にとって大平が「田中にしてやられた」ことは一目瞭然だ。「田中内閣は大平・田中の連合政権だ。悪くいっても0.5大平内閣じゃないか」という私の思いは完全に裏切られてしまう。
“田中に近い筋” からあとで聞くと
「この内閣は大平・田中内閣でも田中・大平内閣でもない、完全に田中内閣だ」
と御本人が断言しているという。
「おれは内を固める。君は外交をやってくれ。君が外相をやらねば三木がやるだろう。対中国外交のような重要な問題を三木にやらせてよいのか」
こういった田中の言葉に乗せられて「大平は体よく外相に棚上げされた」と私はみるようになった。
私は大平内閣ができなかったことに落胆し、田中内閣ができたことに不満であった。

私は二人の人に感想をきいてみることにした。まず事後報告のつもりで日経連の桜田武に会いに行った。
「名声を狙わず 世に迎合せず 外交権を一本に絞ってゆけ。外相になっていいじゃないか。大平は佐藤前総理をこなせない、だから幹事長になったら大変だろう。蔵相になったら為替問題で傷つくだろう。若手と大平の間にヒビが入らぬようにせよ。百名の支持者があれば立派なものだ」
桜田の評価は私とは大分違った。
もう一人、私の信心の師である荒川教会長の金子政司先生を訪ねた。
「こんど大平さんはよくやりました。池田総理が見ています。大平さんは今後変わる可能性があります」
先生は私の不満に対してこう答えてくれた。私の思いはこれで少し鎮まった。
7月13日の下村勉強会にひょっこり大平外相が出席した。私を見て別室によんだので「今度の公選で大平はよくやったと 池田総理は喜んでいる」と金子先生の話をしたら 大平はみるみる元気になった。
「おれはおれ一人の考えで外交をやってゆく。田中に影響はされない。宏池会の若手は鍛え直す。彼らは自分たちの都合だけを考えて おれに幹事長とか蔵相になれといっている」
と意気軒昂となった。

国民一般の受け方は圧倒的に田中支持であった。八年間も続いた佐藤政権に人心は飽き飽きして 50代という若い保守党政治家の出現に強烈な印象を受け その新鮮味に歓呼の声をあげた。「小学校しかでていないそうだ」「東大出のエリート官僚を縦横に使いこなすらしい」「スローガンは決断と実行だという。若いがなかなかのやり手だ」など噂は噂をよび これがいつか神話となっていった。その男が列島改造と中国承認など積極策をひっさげて総理として現実に登場したのだ。待ちの政治家佐藤栄作の退陣のあとだけに舞台効果は満点だ。
世論調査に現れた内閣支持率は68％と吉田内閣を抜いて史上最高となった。田中角栄の実態を多少なりとも知っている私にとっては このことがますますいやなものとなってしまう。「大衆とはなんとお人好しなのだろう」と奇妙な感じになる。
時がたつにつれて私はだんだん腹立たしくなってゆくのをどうすることもできなくなった。前途に危険を予感するからだ。もう一つ、田中総理の輝きの前に大平がどんどんくすんでゆくという不安からでもあった。事実、田中内閣の二年間で大平は少しずつ政治の焦点からはずされてゆく。

これまで大平が兄貴で田中が弟分であるという二人の関係に変化が生じ、大平はいつか田中の同僚となり下手をすると弟分になりかねない状態に落ちてゆくのだ。
それだけではない。当初、大平に対しある種の敬意を表していた鈴木善幸や斎藤邦吉など一部の宏池会幹部の心境にも変化が現れた。これら田中と深い関わりをもった同志たちは、いつか本籍地田中派、寄留地大平派と主客を逆転させていくのだ。鈴木や斎藤は田中の個性に触れてゆく間に知らず知らずのうちに田中と大平を比べ合わせ「大平は果たして総理としてやり切るだろうか」の疑問をもちはじめたといってよい。
当時、学者グループのある友人は私に「田中内閣ができれば走狗は煮られるだろう」といったが、まさに大平は田中の走狗となろうとしていた。

田中首相は8月22日、椎名悦三郎を副総裁に指名、一週間後には三木を副総理に決めたあと、8月31日、大平外相を伴ってハワイに赴き ニクソン米大統領と首脳会談を行った。
田中首相ら一行は9月3日に帰国した。大平外相は9月7日、宏池会で帰朝報告を行い「米国は日本における安保条約の空洞化を心配している」と述べた。

大平は同志にとりまかれつつ チラッと私の方を見たが何もいわなかった。
それから十日ほどたって私は瀬田の大平邸を訪ねた。大平は「もうすっかりおれを見限ったのかと思っていた」と皮肉をいった。そのとき大平夫人が信じている静岡のある女性教祖の話が話題になった。「大平は純粋に田中のことを思っている、ところが田中にはその思いが通じない」とその教祖はいったというが、この意見をどう思うかというのだ。これは夫人の心配だった。私は返事に困ったが「その可能性はある」と答えた。
田中と大平は この9月25日から三日間北京に滞在して、毛沢東、周恩来両首脳と会談することになっている。
大平は日米安保体制をそのままにして日中の国交回復は可能であると見た。だからこれを見きわめ 米国の了解を得るためにハワイ会談に行ったのだ。だからこのあと後顧の憂いなく日中間の話し合いに入ることになる。政府は9月1日に日米共同声明を発表し 同じ月の29日には日中国交に関する共同声明を発表している。明らかにハワイ会談は北京会談を意識してのものであった。
大平が北京に出発する前にと思って私は9月22日 瀬田の私邸に大平を訪ねた。

大平は疲れた顔で一人しょんぼりしていた。
「だいぶ疲れているようですね」
「うん、疲れた」
「あなたは会談が成功するなどと夢にも考えない方がいい、一度ぐらい決裂した方がいいと思う。北京空港に待機する飛行機のジェットが噴射し いよいよ飛び立つという時にやっと話がまとまるくらいに思っておいてちょうどいい。あなたは日本の歴史に対して責任を負うのだから」
「おれの肚はできている。田中もいのちがけだ。最後はおれの責任できめてくる」
大平はそういった。
田中首相ら一行は9月25日に北京に入り、27日 田中・毛会談、29日には田中・周会談を行って日中国交回復に関する共同声明に調印した。大平外相はこのあとの記者会見で「日本と台湾との間の日華平和条約は終了した」と発表した。
日本政府は二つの中国ではなく一つの中国を選び 中国の正統性を承認したことになる。台湾政府は即日、対日断交を宣言した。
吉田・池田内閣以来の日中国交回復は、田中と大平の手でこうして実現することになった。
この時点で日本が戦後の宿題として負わされていた外交上の課題の大部分は解決がつき、あとに北方領土問題が残された。

田中内閣発足と同時に幹事長となった橋本登美三郎は 細事にこだわらない自他ともに認めるアバウトな政治家であった。話し方も実に大雑把で 良く言えば大局的な発言が多かった。そんな人柄なので筆頭副幹事長には腹心の竹下登を起用し 実際の国会対策や陳情の処理、党内の根回しなどはほとんど任せていた。この経験が竹下の人脈と人間の幅を広げ、やがて総理をめざすきっかけになったと私は考えている。
副幹事長は党則上この頃「五名以内」であったが、竹下は各派の親しい議員に今度「貴方を副幹事長に」と約束して歩いた。そしていざ決める段になってわれわれ事務局に「今度の副幹事長候補はこれだから選任手続きの用意をしてくれ」と名簿を示された。しかしそこには竹下筆頭を含めて六人の名があったので「党則は五名以内となっていますが……」と言うと竹下は「えっ若干名じゃなかったのか」と困った顔。そこで名簿の中の一番若い宇野宗佑に副幹事長はあきらめてもらい人事局長に当てることになった。
竹下が宇野にそれを伝えたところ渋られこれまた困り顔。そこで私は人事局長は前任者も その二つ前の者も その直後入閣していることを竹下に伝えた。

その後の役員名簿のなかでは「人事局長宇野宗佑君」となっていた。そして二年四ヵ月人事局長を務めた宇野は その直後晴れて大臣に就任した。
こんなことがあって49年1月の党大会で五名以内を十名以内に党則改正された。
この時、幹事長代理というポストが新設されたのも橋本のキャラクターと無縁ではなかった。初代に口八丁手八丁の江崎真澄が据えられたのは「テレビの国会討論会などには橋本老幹事長に代わって若々しい人材を登用した方がよい」との田中総裁の発案だった。

大局を語る橋本の本領を見た思いがしたのは こんな出来事だ。
ある日 仏教界の重鎮連の訪問を受けた時、彼らは口々に政治批判を展開した。すると橋本は滔々と反論した。
「まさに心こそが大切だ。若者が怪しげな新興宗教に走ったりするのも心の拠り所を見失っているからではないか。もちろん政治の責任も大きいが こんな彼らを救うのは本来宗教家の義務である。今こそ自ら辻立ちして若者を救うために活動したらどうですか」
さすがのお歴々も声なしであった。
いろいろな豪傑を見てきたが 百戦錬磨の宗教家連中に説教して黙らせてしまう政治家は橋本ただ一人であった。